2016年1月11日月曜日

引越しだ/We're Gonna Move



引越しだ/We're Gonna Move

スクリーンから最初に流れて来たヴイス・プレスリーのナンバーが、この<引越しだ/We're Gonna Move>

劇中、レノ家のポーチでエルヴィス扮するレノ家の次男坊ントが歌うアップ・テンポなカントリーな曲。

自分は実際にはDVDでこの映画を鑑賞したので、この曲を耳にしたのはそんなに過去の話ではないが、この映画が製作されたのは1956年。日本で公開されたのが翌年1957年。南極基地に残した兄弟犬タロー、ジローが話題になった年だ。

エルヴィスと長期契約を交わしたのは、豪腕プロデューサーハル・B・ウォリスだが、「金の成る木」と読んで真っ先に契約はしたもののエルヴィスをどう使っていいのか、苦慮していた。それほどエルヴイスもロックンロールも未知の体験だったのだ。ハル・B・ウォリスはエルヴィスをライバル会社20世紀フォックスに貸し出し対策を練ることにした。

そうして製作されたのが「やさしく愛して(Love Me Tender)だった。いまもCMで頻繁に流れ続けるLove Me Tenderはこの作品のテーマ曲として歌われた。



ところが実際には、世界中のスクリーンから最初に流れて来たエルヴイス・プレスリーの歌声とパフォーマンスがこの<引越しだ/We're Gonna Move>なのだ。

1957年といえばまだまだテレビが普及していない時代。

歌は映画の内容(南北戦争)に合わせた古めかしさを感じさせるシンプルなカントリーナンバーをサンスタジオ時代のロカビリー調で歌っている。エルヴィス・ファンでも相当なマニアでないと忘れられている曲だといってもいい。エルヴィスの歌うときの動きは得意のスタイルで初めて目にする人はさぞかし驚いただろう。

同時に、日劇ウェスタンカーニバルで活躍していた和製ロカビリーのパフォーマーと全然違うことも知ったのではないだろうか?






この映画「やさしく愛して(Love Me Tender)」はもともとは「The Reno Brothers(リノ兄弟)」というタイトルで仲良しだった兄弟が戦争がもたらした悲劇に起因する葛藤と活劇が話の骨格。それにラブストーリーが絡むもので内容的には「The Reno Brothers(リノ兄弟)」がふさわしい気がする。

ところが映画に先行して発売されたテーマ曲<Love Me Tender>が大ヒットしたので、急遽<Love Me Tender/やさしく愛して>に改題された。

舞台は南北戦争の時代。

プレスリーが演じるクリント・リノ (Clint Reno) は、リノ四兄弟の末弟で、兄たちヴァンス (Vance)、ブレット(Brett)、レイ (Ray) は南軍に従軍していた。若いクリントは家に残り、母親と農場を守っていた。

一家は、一番上の兄ヴァンスは戦死したと知らされていたが、実は誤報だった。クリントは誤報であることを知らずにヴァンスの許婚者だったキャシー (Cathy) と結婚していた。

4年間の戦争の後、兄弟たちは帰郷して来て、ヴァンスはキャシー (Cathy) がクリントと結婚していることを知り一家は葛藤する。

ヴァンスの帰郷後も、キャシーは若いクリントを裏切ることはないが、心ではヴァンスをまだ愛していた。一方のヴァンスも長兄の役割を全うしようと大きな気持ちですべてを受け入れるが、クリントは嫉妬心に駆られ、兄を恋敵だと思い込む。

兄弟3人は、戦争が終わったことを知らずに北軍の給料12,000ドルを運搬していた列車を襲撃し大金を獲得していたので、合衆国政府から強盗として追究されることになる。
ヴァンスは、戦友たちの意向に反してこの資金を返還しようとするが、戦友との間で衝突する。クリントは、この戦友にそそのかされヴァンスと対立し、悲劇的な結末を迎える。

その結末にエルヴィスの実際の母グラディスは映画だとわかっていても悲しくて泣いたそうだ。ファンも同じでラストシーンにLove Me Tenderを歌うエルヴィスの姿が挿入された、

2014年8月31日日曜日

Blue Moon/ブルームーン



Blue Moon/ブルームーン

Blue Moon you saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own

Blue Moon you know just what I was there for
You heard me saying a prayer for
Someone I really could care for

And then there suddenly appeared before me
The only one my arms would hold
I heard somebody whisper please adore me
And when I looked to the Moon had turned to gold

Blue Moon now I'm no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own




ブルームーン
ボクがひとりたたずんで居るところを見ていたんだろう?
ボクの心には希望もなく
自分への愛さえもない

ブルームーン
ボクは何のために生きて来たのか
ボクの祈りを聞いただろう?
僕は誰かの為に生きれるのか?

そして突如目の前に現れた
ただひとりの、ボクの腕の中の愛すべき人
誰か 聞いておくれ 頼むよ ボクは彼女にふさわしいかい?
空を見上げると黄金の月があった

ブルームーン
いまは、長い間孤独だったボクではない
夢もなく 

自分を愛する心もないけれど





フランク・シナトラをはじめ、ジャズ、ポップスのそうそうたるアーティストが歌っていると名曲。歌詞が分かると歌いたくなるのも頷けます。

この時、エルヴィス・プレスリーはまだ20歳。
月を行くラクダの足音のようなポコポコがご愛嬌。
アメリカ南部(テネシー州)でゴスペルとカントリーを聴いて育ったエルヴィスは「ジャズは苦手」と語っています。
それでもバックコーラスとの掛け合いは哀愁たっぷりに曲の孤独感を表現してさすが。

ひと月に満月が二度輝く時、二回目の満月のことをブルームーンというそうですが、それは間違いという説もあります。こちら

エルヴィスには、この<Blue Moon/ブルームーン>の他に<When My Blue Moon Turns To Gold Again/ブルームーンがまた輝けば>という曲があります。こちらは軽快なカントリーナンバー。聴き比べると違うエルヴィスが楽しめます。


ブルームーンがまた輝けば(68年)

ブルームーンがまた輝けば(56年)



2012年1月10日火曜日

お前が欲しくて / Trying To Get To You



Trying To Get To You / お前が欲しくて


レディガガってそのファッションも、パフォーマンスも、やりたい放題って感じですごいですね。ビートルズの時代には考えられない奔放さです。ビートルズが日本に来てコンサートした時って、行ったら退学って言ってた学校があったくらいですからね。  

エルヴィス・プレスリーは、とうとう日本に来なかった大物だけど、さらに状況はひどく腰をふっただけでアメリカでさえ下半身を放送しなかったし、プレスリーが子供を堕落させていると言ってレコードを焼却した教会もたくさんあったといいます。あるコンサートでは身体を動かしたら逮捕すると逮捕状を手にした警官が取り囲んだこともあったそうです。もし、その時代にレディガガが彼女らしくやったら死刑ものですね。  

プレスリー登場はアメリカでも事件だったのです。エルヴィス・プレスリーの際立った音楽性のひとつに、黒人の歌を歌うと白人のように聴こえ、白人の歌を歌うと黒人のように聴こえる点があることです。

さらにステージの動きが黒人っぽい。それは彼が貧しい家庭で育ち、黒人が多い地域で育ったということ、信仰の強い母親のもとで教会に通いゴスペルに親しんだことが影響していたからです。 彼のパフォーマンスで黒人差別の問題に火がついた。


プレスリーはただ音楽をしただけなのに、ロックは不良の音楽というラベルが長い間貼られました。 事件になるほど「反体制」の印象が強まり若者のヒーローになった。 それ以来「反体制」がビジネスになると知った音楽業界は反体制を利用した。 ビートルズも挑発するような言動を好んだ。 英国パンク最大のスター、セックスピストルズはその顕著な例です。本人らは普通の若者だったけど、マネジャーらが王室批判のようなことを仕掛けて騒然とさせスターに仕立て上げた。


プレスリーは批判の集中砲火を浴びていたときに「音楽が人を不良にするなんてことはあり得ない。自分はそんな育てられ方をした記憶もない」と反発しています。ジョン・レノンは「エルヴィス以前には何もなかった」と言ってますが、それを追求していくと自由の解釈とあり方に突き当たります。ロックの原点にあるゴスペル、R&Bなど黒人音楽を白人が演奏したからって何が悪いの?という素朴な疑問です。  

ロックって何だろうという疑問は、自由って何だろうに通じます。自由は体制に反発することではない。体制から離れることでもない。 合宿していた自衛隊の食堂で「ハウンドドッグ」が流れてきたときに癒されたのがプレスリーとの最初の接点でした。ボクがリアルタイムでプレスリーを聴いたわけじゃないのに、プレスリーが好きなのは、一番最初に自由の意味を教えてくれたからです。





自由とは自分をコントロールできることです。つまり良識と良心を失わずに思ったように行動できるということなのです。 そして幸福な成功とは、自由に感じて、考え、行動するプロセスそのものなのです。達成出来なかったから失敗だったというのは自由でも何でもない。それってとっても不自由な考え方、感じ方で、達成の度合いに関係なくすでに不幸せなのです。  

「失恋したから悲しい、不幸だ」なんて全く狂気です。そんな人は最初からおかしくて、恋しているわけでも、愛しているわけでもない。「アンタのこと思うから、アンタもオレを思え」という単なる取引でしかない。もしそれが変でないとしたら、相手の自由、人格、都合はどうなるのって話なのです。ストーカーがどれだけ変な行動か分かるでしょう。全く不自由な世界です。恋愛する前にそんなに不自由な世界に生きておもろいか。

 成功も同じで、傷つくのが怖いからトライしないなんて、そんなに不自由な世界に生きて、お前それで生きてるといえるのか。

1956。エルヴィスはけもの道を走ったのです。
ファンに最高の曲はどれかと言えば、ものすごく多くの曲が飛び出すだろう。
そのなかに必ず入るだろうと思えるこれだ。

お前が欲しくて / Trying To Get To You

ここでは伝説の1968年、テレビスペシャル版でお楽しみください。



2011年11月11日金曜日

ラブ・ミー・テンダー / Love Me Tender


ラブ・ミー・テンダー / Love Me Tender

米国レコード工業会(RIAA)では、更新され続けているエルヴィス・プレスリーのレコード(CD)売上記録を改めて正式に認定するための厳格な監査が行われていました。 

2004年1月8日。エルヴィス・プレスリーが眠るエルヴィスの自宅。
グレイスランドにおいて、米国レコード工業会(RIAA)は、エルヴィスの誕生日に合わせて、歴史的な偉業を証明するための公式発表を執り行いました。

RIAAは、エルヴィスは米国内において1億枚のレコード(CD)セールスを記録した米国史上最高売上ソロ・アーチ-ストであると公式発表を行いました。

米国内においてエルヴィス・プレスリーは、97枚のアルバムがゴールド・レコード認定、うちの55アルバムがプラチナを獲得。そのプラチナのうち25アルバムはマルチ・プラチナを受賞しています。

なかでもRIAA認定によれば「Elvis' Christmas Album」は700万枚を超えるセールスによってエルヴィスの最多売上アルバムに認定されています。
シングルにおいても、51のゴールド、うち27枚がプラチナ、7枚がマルチ・プラチナの偉業を達成、公式認定されています。

以上は米国内のセールスに限定したことですが、世界中を対象とすれば、10億枚(アルバムとシングル両方を含む)を超えるセールスを記録していて、全セールスの約60%が米国、40%が外国であるとコメントしています。

21世紀になっても新しいアルバムがゴールドに認定されています。
デビューしたのが1948年。1977年、暑い夏の日に他界して、すでに35年を迎えようとしています。アメリカでは毎年イベントが行われます。いつの時代もエルヴィス・プレスリーは、いまを共に生きるアーティストです。

その中でもひときわ輝くバラードの傑作「ラブ・ミー・テンダー」「好きにならずにいられない」・・・・アメリカンポップスのスタンダードナンバーとして、これからも歌い継がれていく名曲です。

自分はある年の夏・・・・アメリカに住む友人の実家で過ごしていました。中流のホームタウンでは、7月4日の独立記念日を祝い、めいめいの家庭の庭先では、家族の花火大会が行われていました。

花火自慢から始まった雑談に興じていたのですが、エルヴィスの話になって、そこに居合わせたどの家庭にもエルヴィスのレコードが少なくとも1枚はあることをその時知りました。

その内の数軒は遠い国からきた奇妙な異邦人である自分に、所有するエルヴィスのレコードをわざわざ見せてくれました。その中に「ラブ・ミー・テンダー」「好きにならずにいられない」「さらばふるさと」などがありました。エルヴィスはアメリカンポップスの実験場だったことを証明するような曲たちです。RIAAの公式発表を裏付ける話です。



そこの収まっている音楽は、すべて「一発録り」です。 何テイクもスタジオで録り直すやり方です。晩年、体調を悪くしてからダビングするようになりましたが、エルヴィスの意識にダビングはなく、「一発録り」のイメージだったと思うのです。
それが最初からの自分のスタイルでしたから。

つきあうバンドは大変です。実際没になったテイクを聴いても分るようにいいものが沢山あります。「もう、いいじゃないか。どこが問題なんだ。」と思ったと思いますが、熱意がバンドを動かしたのです。 

映像に対するこだわりは自分では見えない分、少なかったように思いますが、音に対しては皮膚感覚でキャッチしていたように思います。根っからのミュージシャンであり、それ以上に愛情に敏感だったエルヴィス・プレスリーとは愛の人だと思うのです。だから「グレイスランド」というメルヘンチックな映画が生のエルヴィス物語以上にエルヴィス物語として説得力があるのです。

2011年10月27日木曜日

ただひとりの男 / I WAS THE ONE



ただひとりの男 / I WAS THE ONE





















初のメジャーデビュー曲にして、エルヴィス・プレスリー初の世界席巻大ヒットナンバー<ハートブレイクホテル>のB面ながらTOPI00でも注目されたエルヴイスのオリジナル・バラードナンバー。

胸を焦がす力のこもったカントリーナンバーで、カントリー・チャートではベスト10内8位でランキングされた。リアルタイムで聴いていないが、どんなタイミングで接触しても、未知との遭遇になるはずだ。

ユージーランドの友人は、この曲がお気に入りで、ドライブしていると何度も繰り返し聴いていた。素朴な彼女の生き方にも、素朴な風景にもよく似合う。カントリーナンバーに触れる機会の多い国々の人からはいまも愛される佳作だ。

ドレスアップしたリンダ・ロンンシュタットが砂漠の彼方から口ずさみながら登場する幻想さえ抱いてしまう。無理もない自然でありながらもエモーショナルな運び方が最初から最後まで胸を打ち続ける。それは心の方向指示器のような歌声だ。

トラックに乗ってやってきた21歳の青年は、プラカードもスローガンもなく、心をこめて歌うことで世界中の何の共通点を持っていない人々をひとつにまとめてしまったのだ。

パック・コーラスにゴードン・ストーカ←(ザ・ジョーダネアズ)、ベン&ブロック・スビア(ザ・スピア・ファミリー)の3 人か加わっている。



デビュー盤ながら、フィーリングの確かさ、圧倒的な声の良さ、歌の旨さが発揮され、早くもその実力を示しているのは立派としか言いようがない。21歳にして、どうしてこんなにも素敵に仕上げられるのか、不思議だ。セクシーとは、ひたむきに恋することか、エルヴィスにとってスタジオは放課後の教室のようだ。ナッシュビルにあるスタジオで録音された。


ジーン・ピットニーのマネジャをつとめたアーロン・シュローダーが楽曲を提供している。


2011年5月28日土曜日

ハウンド・ドッグ / Hound Dog



ハウンド・ドッグ / Hound Dog

1957年、エルヴィス・プレスリーは、アメリカ南部、メンフィスのサン・レコードからデビューしました。白人でありながら黒人のように歌う彼のパフォーマンスは文化を変えるに十分な威力がありました。コンサート・ツアーによって徐々に知名度があがっていきます。

そして1956年1月、RCA ビクターからメジャー・デビューします。記念すべき第1作<ハートブレイクホテル>のヒットによって、その名はアメリカ全土に知られるに至ります。そして第三弾となった<ハウンド・ドッグ/冷たくしないで>の両A面による歴史的なヒットによってアメリカ全土の若者を熱狂させ、世界に伝染しました。

Hound Dog

You ain't nothin' but a hound dog
Cryin' all the time
You ain't nothin' but a hound dog
Cryin' all the time
Well, you ain't never caught a rabbit
And you ain't no friend of mine
When they said you was high-classed
Well, that was just a lie
Yeah, they said that you was high-classed
Well, that was just a lie
Well, you ain't never caught a rabbit
And you ain't no friend of mine




デビュー以来、ロカビリーからロックンロールへの変遷を猛スピードで疾走しながら、若者の魂を、その芯の芯から揺さぶり続けたエルヴィス・プレスリーの音楽は、<ハウンド・ドッグ>で頂点に達するとともに、アメリカの「常識」を激怒させるに至ります。ロックンロールは反抗のメッセージというイメージが固定したのも、<ハウンド・ドッグ>事件の結末です。

そのステージでのパフォーマンスは、卑猥と攻撃され、そのビートの効いた歌声は、
フランク・シナトラに「チンピラの歌」と言わせました。

しかし、何より、世の大人を震撼させたのは、永年にわたってアメリカの常識が守り続けてきた「黒人は白人より劣っている」という不文律が、田舎出の下層階級の青年によってボロボロに引き裂かれたことであり、自分の娘や息子が自分たちよりエルヴィスを支持したことでした。

エルヴィス・プレスリーは肯定こそすれ、誰かを、あるいは何かを否定したわけではありませんでした。エルヴィスの音楽がエルヴィスの意識とは関係なく、白人も黒人も対等なんだとメッセージしただけであり、リズム&ブルースもカントリーも同じ音楽だとロックンロールを通じてメッセージしただけでした。

1956年。1年の内の半分はエルヴィスの音楽がヒットチャートのトップを占領、そのどれもがミリオンセラーを記録します。

そこには音楽を越えた問題解決と新たな問題提起がありました。

黒人とどう接していいのか、訓練も教育もされていなかった若者や良識のある人にとっても、もちろん差別主義者にとっても、アメリカ全土全国民を揺るがす事件を意味しています。

事実、エルヴィスは逮捕状を用意した警官に囲まれたなかでコンサートをしています。
爆発的な人気を背景に録音されたエルヴィスが歌ったクリスマスレコードをオンエアしたDJが解雇されたり、レコードが焼き尽くされたり、コンサート会場の貸し出し禁止などが相次いで起りました。


しかし、すでに世の中は従来の価値観から変わりはじめていたのです。
そして、1963年8月28日、黒人の公民権運動のために「私には夢がある」と訴え全米の黒人の心をひとつに束ねたマーティン・ルーサー・キング牧師率いる20万人のデモ行進がワシントンで行われます。
やがてその抗議は全米で黒人暴動という形で広がっていきました。

米ソ冷戦、ベトナム、国内外に問題を抱えたまま、3ヶ月後にフロンティアスピリットを訴えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件が発生。さらに2年後の65年にハーレムでマルコムX暗殺、その4年後、北アイルランドで公民権運動が起こりました。 こうしてアメリカの問題は国内にとどまらず世界に広がっていきました。




<ハウンド・ドッグ>は、たとえば<イマジン>のように世界平和を訴えていません。政治的なメッセージを持っているわけではありません。
しかし、間違いなく、音楽がなし得た最大にして最高の文化革命でした。

「黒人は白人より劣っている」、「女性は男性より劣っている」・・・あらゆる機会を通じて巧みに装いながら他者の劣等性を語り、恐怖心を煽り、依存心を育て上げるカラクリと人心をコントロールしたい者に熱い一撃を食わした事件でした。

<ハウンド・ドッグ>と<冷たくしないで>・・・
激しさの裏側では、君が冷たくしても、ボクはボクを見捨てないとユーモアたっぷり、タフに歌います。

この両A面シングルは、劣等感、劣等性を押しつける世界への「自分はOK、あなたもOK」と宣言した人間賛歌でした。

ジョン・レノンもボブ・ディランもエルヴィスに揺さぶられて目をさました人たちでした。彼らもエルヴィスのように揺さぶり目をさまさせてやりたいと思った人でした。そして彼らはよりストレートに伝えることで、扉を開きました。

つまり、ある人々にとって、エルヴィス・プレスリーの足跡は分りにくいのです。
しかし、アメリカを歩いてみたら分ります。都市伝説化したエルヴィスのゴーストが町をウロウロしている現実に触れたら、エルヴィス・プレスリーについて考えてみたくなるでしょう。

<ハウンド・ドッグ>は10週連続、<冷たくしないで>は11週。シングル両面でヒットチャート21週連続トップとなるギネス認定最長記録を確立。驚異的な ベストセラーを続けました。

その一番の理由は、セクシーな声と、これ以上はない、ふさわしいパフォーマンスで、自分との関わり方を教えてくれたからではなかったでしょうか?
当時は、そこに人を大切にする愛が溢れていたなんて、誰も思わなかったかも知れません。奇妙な光景に思ったかも知れません。

しかし、ロックンロールが巨大なビジネスになることが分かった瞬間でもあり、ロックンロールは反抗のシンボルに打ってつけだと分かった瞬間でした。

「エルヴィス以前にはなにもなかった」・・・・
ジョン・レノンの言葉、そのままに、良い見本のすべてであり、悪い見本のすべてになりました。エルヴィスのようになりたい、エルヴィスのようになりたくない。・・・・エルヴィスは教科書になりました。おかげで、エルヴィスは誰より尊敬され、誰より踏みつけられました。

エルヴィス。プレスリーが、自らの良識と良心によって表現した<ハウンド・ドッグ>を、どのように聴くかは、聴く人それぞれの良識と良心にまかすしかありません。

人は対等。
お年寄りであろうが、
赤ん坊であろうが、
尊敬すべき対象です。

<ハウンド・ドッグ>が教えてくれたことです。。

聴衆に向かい「ありがとう、大変ありがとうございます」と死の間際まで律儀に、
他者の尊厳に敬意を表し続けた男のロックンロールを、本当になって、本当になって聴いてみてください。
 
音楽と文化と歴史が、そして人間が熱く交錯した瞬間を考えてみてください。

これがエルヴィス・プレスリーのロックンロールです。

2011年3月21日月曜日

エルヴィス・プレスリー登場!



1枚目のアルバム / エルヴィス・プレスリー登場!

ロックンロールという言葉はエルヴィス登場以前にあるラジオ局のDJが発した言葉だという。
その後、映画「暴力教室」のテーマ曲としてビル・ヘイリーの<ロック・アラウンド・ザ・クロック>が歌われ、これがロックンロールとしてヒットした。と、言ってもピエロはこの曲はグレン・ミラーのようなバンドの延長線にあるような気がする。
56年には女性シンガー、ケイ・スターの<ロックンロール・ワルツ>がビルボード第一位になっている。と、いっても曲自体はバラード。


1956年、エルヴィス・アーロン・プレスリーーーーーエルヴィス・プレスリーはRCAからデビューした。
その記念すべきアルバムが『ELVIS PRESLEY/エルヴィス・プレスリー登場!』である。


1月10日 <I Got A Woman >を皮切りにRCAで初のレコーディング・セッションを行う。

1月27日 RCA初のシングル<ハートブレイク・ホテル>を発売。

1月30日 <ブルースエード・シューズ>を録音。

2月にTV『ステージショー』3度出演

2月 サンからリリースした<忘れじの人>が全米カントリーチャート第一位になる。

3月13日 アルバム『ELVIS PRESLEY/エルヴィス・プレスリー登場!』リリース
     
1. Blue Suede Shoes
2. I'm Counting On You
3. I Got A Woman
4. One-Sided Love Affair
5. I Love You Because
6. Just Because
7. Tutti Frutti
8. Tryin' To Get To You
9. I'm Gonna Sit Right Down And Cry (Over You)
10. I'll Never Let You Go
11. Blue Moon
12. Money Honey



■<Blue Suede Shoes ><Tutti Frutti ><I Got A Woman><Just Because>の4曲をアルバムからカットしたEP盤も同時にリリースされる。

■また2枚組のEP盤も同時にリリース、こちらは以下の8曲

Blue Suede Shoes
I'm Counting On You
Tutti Frutti
Tryin' To Get To You
I Got A Woman
One-Sided Love Affair
I'm Gonna Sit Right Down And Cry (Over You)
I'll Never Let You Go



3月17日  <ハートブレイク・ホテル>ビルボードカントリー・チャートで第一位になる。

3月24日  6回目、最後の『ステージショー』に出演

4月 3日 『ミルトン・パール・ショー』に出演、
      サンディエゴの海軍補給基地の空母から中継

4月 6日  パラマウント映画と7年契約を締結(1日にスクリーン・テスト)

4月23日  ラスベガス、ニューフロンティア・ホテルに4週間の予定で出演
                         (不評で2週間で終了)

5月 5日 『ELVIS PRESLEY/エルヴィス・プレスリー登場!』
      全米アルバムチャート第一位
      RCAビクター史上最高の売上を記録

7月 1日 テレビ『ステーブ・アレン・ショー』に出演。
     非難を考慮し、タキシードを着用させ、体を動かさずに犬に向かって歌わせる。
     まるで道化師だ。ステーブ・アレンは「好評だった」とコメントした。
     エルヴィスは「仕事だから我慢するよ。」とスコッテイ・ムーアに語る。

7月13日  <冷たくしないで/ハウンドドッグ>リリース
      このシングルもRCAビクター史上最高の売上を記録。

8月10日  <冷たくしないで/ハウンドドッグ>共にビルボード第一位。

フロリダ州少年裁判所判事、エルヴィスに体を動かせて歌うことを禁止命令。
違反した場合、即刻逮捕するとし、監視されながら、コンサートを行う。

若者がエルヴィスを支持。擁護運動が起こる。
アメリカの歴史において初めて世代間ギャップが発生。若者文化の誕生。

ロックンロール・ブームが全米に巻き起こる。レコード業界の売上は一挙に3倍になる。

8月31日 RCAは急遽、『ELVIS PRESLEY/エルヴィス・プレスリー登場!』に収録されていた全12曲を6枚のシングルにして一斉にリリースする。音楽業界史上空前絶後の出来事である。
     

9月9日 テレビ『エド・サリバン・ショー』に出演。視聴率82%。
      若者文化の確立を意味する。

11月3日 <ラブ・ミー・テンダー>ビルボード第1位

11月16日 映画第1作『やさしく愛して』公開。

12月8日、2作目のアルバム『ELVIS』をリリース。

そしてーーーー

12月29日 ビルボード始まって以来の快挙!
      トップ100に同時に10曲をチャートインさせる。

1957年

1月6日 3度目、最後の『エド・サリバン ショー』に出演。
(以後、テレビ出演は、シナトラ・ショー、NBC スペシャル、ハワイ・サテライト中継3回のみ)

当時の社会情勢を考えた時に、この『ELVIS PRESLEY/』・・・『エルヴィス・プレスリー登場!』の邦題はやっぱりスゴイ。
ヒットチャートナンバー1になった<ハートブレイク・ホテル>は営業上の政策で意識的に外されているが、ここには永遠のチャレンジャー、エルヴィス・プレスリーがいる。

このレコードは人種差別の問題を根源とする多種多様な理由の非難によって、多くのヒットシングルとあわせて燃やされもした。しかしエルヴィスは「エルヴィス・プレスリーの音楽」が決して間違っていないと信じていた。

サン・レコードのサム・フィリップスは最初にエルヴィスに会った時にどんな種類の音楽が歌えるのかと尋ねた。「僕は何でも歌えます」「僕は誰にも似ていません」この言葉はそのままエルヴィスの人生となった。

サムに歌ってみろと言われたエルヴィスは知ってる限りのあらゆるジャンルの楽曲を歌ってみせ、サムに衝撃を与えた。
「僕に必要なものは、僕のアイデアを一緒に作り上げてくれるバンドです」といい、その言葉はそのまま真のロックンロールの創造となった。それはロックンロールをめざしていたというより、黒人の音楽と白人の音楽はひとつに融合できるというアイデアだったのだと思う。

その点が先に出された<ロック・アラウンド・ザ・クロック>やエルヴィスを追いかけたロカビリーたちと決定的に違うのだと思う。
そしてそれはそのまま最後までエルヴィスの道になった。

音楽という芸術の測り知れない可能性を切り開いた。



これはエルヴィス・プレスリーの写真の中でも、僕が一番大好きな写真だ。
1956年ニューヨークへ行ったエルヴィスが買い物しているスナップ。

この時のエルヴィス。プレスリーの気持ちを考えたら、胸が焦げそうになる。
おそらく人生で一番幸せな時間だっただろう。