2010年5月12日水曜日

ミリオン・ダラー・クワルテット Million Dollar Quartet

1956年12月4日、エルヴィス・プレスリーがサン・レコードを訪れた。偶然、カール・パーキンスが録音中で、外にはジェリー・リー・ルイスがいた。そこにジョニー・キャッシュがやってきた。

こうしてエルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュというメンツが揃った。そこで非公式な即興のジャム・セッションが行われた。楽しいセッションの光景をサム・フィリップスはテープに録音した。

この奇跡的なセッションの光景は、エルヴィスの死後81年にリリースされて世界を驚かせた。さらに67年に発見されたテープの音源も加えて41曲を収めたアルバム「Million Dollar Quartet」が90年にRCAからリリースされている。

私的な音源なので音は良くないが、ゴスペル、スタンダードなどジャンルを問わない貴重なセッションだ。

2010年5月2日日曜日

ブルー・スエード・シューズ



ブルー・スエード・シューズ

ロックの黎明期のこと。
エルヴィスは「あんたが何をしたって構わない。 だけど俺のBlue Suede Shoesは踏まないでくれ」と歌った。
この曲がロックンロールとは何かをすべて表現している。



誰もが見たことも聴いたこともない、その過激さゆえに、悪魔か殺人鬼のように世間から袋叩きにされたアメリカ南部メンフィスの貧しい青年エルヴィス・プレスリー。

当時のライバルで優等生のイメ-ジのパットブーンが白で固めたコスチュームに対峙して歌った「ブルー・スエード・シューズ」。

カール・パーキンス のオリジナルだが、当時のエルヴィスの状況を映し出した曲として、エルヴィス・プレスリーのシンボリックな曲として扱われている。

カール・パーキンスのオリジナルもカッコいいが、それとは違いエルヴィス・プレスリーは最初からたたみかけるように一気に突っ走る。ワイルドだ。ロック魂がストレートに伝わってくる名曲だ。

ロック魂とは、つぶれそうになりながらも、あるいは潰されそうになりながらも、泣きたい、降参したい、それでも自分の道を貫き通そうとする。追い込まれてもがむしゃらにやる、カッコ悪さではないだろうか?


カッコ悪いというのも、第三者に言わせればの話で、実はそう言う本人にやり通す自信がないだけのこと。
つまりコンプレックスの裏返しでしかない。ロック魂とはこの裏返ってハスに構えた状態ではなく,もっとストレートでがむしゃらで変化を恐れないことだ。

リアルタイムで聴いていない。この曲を聴いたのは、エルヴィスの人気が下降していた時だった。特に日本での扱いは厳しくビートルズに押されていた。

エルヴィスは2回録音していて、1度はデビュー直後、もう一度は除隊後で映画「G.I.ブルース」のサントラでそれぞれ趣きが違う。ここで取り上げたのは、1956年メジャー・デビュー直後の「ブルー・スエード・シューズ」だ。


♪ well you can do anything but lay off my blue suede shoes♪



BueSuede Shoesという曲は、ロック魂そのものだ。


2010年5月1日土曜日

アイ・ガット・ア・ウーマン



アイ・ガット・ア・ウーマン

「そのままでいいんだよ」と言ってくれる歌だ。

「よし、いくぞ!」よりも速いひとこと。
"Wool"------パンクスたちが叫んだ”Fuck You"よりも強い痛快な一撃。20年の屈折。憂鬱と閉塞感が大気中に解放される。シャンペンの栓を抜く音。弾ける声。ブルースの進撃。ハードロックが粉々になる声。どこまでも転がって行く声。楽器になった声がバウンドしている音。歓喜するしかないレコードだ。

呼吸がリズムを刻む。心臓がうねっている。喜んでいる息。誰かのために歌っているわけじゃないことが分かる呼吸。呼吸が頬笑んでいる。自分のための歌。それが嬉しいのは、身体も精神も自分のためにあるんだと、教えてくれるからだ。

 アイ・ガット・ア・ウーマン。最初にして、最期にして、最強の言葉「フリーダム!」がスカートの下に隠されている。10時間かけて探している夜と朝。ボリュームを上げる。最初の音の重要性はいまも同じだ、「よし、いくぞ!」はロックンロールであるための約束だ。聴くもののテンションを最大限に引き上げ、一気に解放し、共振するためには、全身全霊を引き付けるサウンドでなければならない。

エルヴィスはそれを最初に、しかも肉声で、唐突にやってのけた。装置らしいものがなかった時代、螺旋階段で歌うことでエコー効果も引き出した。それがロックンロールの最初の出発点だった、

ロックンロールの幸福。エルヴィス・プレスリーの真髄。ビル・ブラックの真髄。スコティ・ムーアの真髄。すべてがひとつになって動いている。「少年たち」の背骨がひとつになったフックだらけの演奏。変幻自在、声の音色は恍惚へ誘う。誠実なダンスに歓喜しよう。ギターリフと一緒に歌おう。歌いながら転がっていけ。自由の在りかを探すのだ。

スカートの下では飽き足らない自分さがし。日常の壁を突き破り、未知に向かって進むロックンロールという名の乗り物に乗った聖なる旅。
楽しい声。誰でも自由に飛び入りできる旅、若者、そして少年少女は塩化ビニールを手に旅に出た。


のろけ話をくり返し聴こうではないか。
あんまり嬉しそうにはしゃぐから、いつまでも聴こうじゃないか。

♪ 俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘さ
俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘さ
朝、必要な時にここにいてくれる
親友みたいな存在さ、
俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘なんだ
明け方から愛をささやくのさ、俺だけにね
明け方から愛をささやくのさ、俺だけにね
俺だけに愛をささやくく彼女
とってもやさしく愛してくれる
俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘なんだ

朝から晩まで愛し合う
ケン力なんかしやしない
他の男には目もくれず
俺に淋しい思いもさせないで
女は家にいるのが一番と
わきまえてる娘なのさ

俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘なんだ
俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘なんだ
彼女は俺の女で俺も彼女の女さ
俺の女は町外れに住んでいる
とってもいい娘なんだ

知らないのかい、すごくいい娘なんだぜ
知らないのかい、すごくいい娘なんだぜ
俺の可愛い女は町外れに住んでいる


大人たちは「不謹慎」「悪魔」のラベルを貼った。企ては成功したが、その光景を見ていたこどもたちはエルヴィスの軍服の下の身体にあったものを受け継いだ。
アイ・ガット・ア・ウーマン。その身体が縦横無尽、奔放に動いていて眩しい。

エルヴィス・プレスリーがモーゼの再来に見えたとしても決して不思議ではない。革命の旗手として先頭に立って、理性よりも確かな身体に真実を掲げて突き進んだのだから。

しかしーーーもしこのレコードを聴かない理由が不特定多数の「愛されすぎることへの嫌悪」だとしたら、「神のように崇められていることへの苛立ち」だとしたら、間違った選択だ。それらはエルヴィス・プレスリーとは何の関係もないことだと言える。

自分のままでいいことを知ったエルヴィスはただ御機嫌だっただけだ。それを伝えたかっただけだ。どうしてこんなふうに歌えるのか、それを考えてみるだけでも、聴く価値はあるし、人生を楽しむという点において間違いなく貢献するだろう。こんなふうに歌える者はいないのだから。

Woll,I got a woman way cross town
She's good to me, oh yeah
Say I got a woman way cross town
She's good to me, oh yeah
She's here in the morning whenever you need
Yeah, she's a kind of friend indeed l got a woman vvay cross town
She's good to me, oh yeah She says she loves me early in the morning
Just for me She says she loves me early in the morning
Just for me Oh yeah, she says she loves me just for me
Oh yeah, you know she loves me so tenderly
l've got a woman way cross town
She's good to me, oh yeah
She's there to love me both day and night
No groans or fusses, just treats me right
Never running in the streets Leaving me alone
She knows a woman's place Is right there at home
Well I got a woman way cross town She's good to me, oh yeah
Well I got a woman way cross town
She's good to me, oh yeah Well, she's my baby, don't you understand

<アイ・ガット・ア・ウーマン>はレイ・チャールズの作品。エルヴィスの<アイ・ガット・ア・ウーマン>はRCA移籍、初のアルバム「エルヴィス・プレスリー登場」に収録された。アルバムは記録破りの大ヒット。お金のないティーンエージャーのために全曲シングルカットされた。

画像の<アイ・ガット・ア・ウーマン>シングル盤(日本国内盤)は1964年に再販されたときのもの。

アメリカの新しいヒーロー

過去10年アメリカを覆ってきた保守主義と偽善の暗い影は、これからの2、3年さらに悪化の一途を辿るだろう。

それに対してリベラルなミドルクラスは並々優柔不断の度合いを深め、砂の中に突っ込んだ頭を一層深くもぐりこませることで対処するしかないことも想像に難くない。つまりアメリカの若者たちに与えられる選択肢は右か左か、禅仏教と麻薬中毒の道か、あるいは都市近郊に住まいを構えるミドルクラスの退屈な毎日かの二つしかないということになる。

こうした事態がどんな結末を導くか、わたしたちは既にその幾つかを目にしている。それを見て恐怖にかられ、叫び声を挙げないような人は、いずれそのために酷い目に遭うに違いない。
これまでに顕著になった主なものとしては、ロバート・プルスタイン(役に立つ悲鳴を挙げた数少ない人物の一人)のいう「アメリカの新しいヒーロー」の出現がある。

ヒーローは様々な姿をとって登場する。テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』の主人公、あの粗暴なスタンリー・コワルスキーもその一人である。コワルスキー(マーロン・ブランド演じる映画では特に)の示す堕落した獣性、愚かしさを、巷のビート・ボーイたちは、何と男らしさのシンボルと見、豊かな感受性の現れと取り違えた。

ジェイムズ・ディーンもこのタイプのヒーローの一人だ。この男はまともに話す能力さえなかったが、それを魂の純潔さの証ととってくれるファンがいた。ちょうどジャック・ケルアックが理路整然とした文章を書く力を持たないことが美徳であり、聖人である証といわれたように。

エルヴィス・プレスリーの吹き込んだすべてのレコードに聞かれる淫らなつぷやきも、このヒーローの声なのだ。こうした現象はどれもブルスタインの言葉を再び引くなら、「文化の崩壊を予言する」のであり、「口籠もるヒーローたちの姿に、大人になることを恐れるアメリカの若者たちの気持ちが象徴的に現れている。大人になるということは、自分の意見をはっきりと述べることでもあるからだ」。

ノーマン・ボドーレツ

愛ピのエルヴィス・プレスリー コレクション

日本全国男前プロジェクト

ゲンキポリタンのじぶんぢから再生プロジェクト